いつのころからか私は、奈良の地をそぞろ歩くことを無常の楽しみにしている。
何がそうさせるのか、私自身よく分からない。
けだし秋篠寺の、匂うがごとき伎芸天への遥かな憧れか。
香り高い天平の清浄を今に伝える、唐招提寺への果てしない夢か。
法隆寺 夢殿に佇立する、いくたの謎に包まれた、救世観音の神秘へのロマンティシズムか。
はたまた、大和路にひょっこり出くわす野仏の無心な表情の懐かしさか。
とにもかくにも、古都への憧憬の去らぬ日は、一日とてないのである。
万葉集にみるごとく、伸びやかにして素朴、自由にして大どかな奈良の、屈託のない光と空気は、王朝風のきらびやかさ、しかつめらしい格調と規範、禅宗的な、ある種の心構えを要する森厳さを漂わす京都のたたずまいとは違う。
いわんや、ヨーロッパ文明の源流アテネ・ローマの、人を寄せ付けぬほどに偉大で、冷徹なまでに理知的な古跡とは、まったく趣を異にするといってよい。
だいぶ以前のことになるが、ほぼ時期を同じくして、奈良とローマ で、真冬の夜道に方向を失い、途方に暮れたことがある。
ともに東京や大阪とはちがい、夜は暗いのである。
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ルネッサンス美術
その日、カトリック教会の総本山、サンピエトロ寺院内のシスティナ礼拝堂に描かれたミケランジェロ の祭壇画『最後の審判』と天井画『天地創造』をはじめ、ルネッサンス美術の力強く、あまりにも生々しい人間描写に圧倒されて辟易していた。
日本人の手になる絵画で、これほどに人間の肉体と情熱を強烈に表出した作品は、古今を通じて見当たらない。
狩猟民族のバイタリティであろうか。
中世の束縛から開放され、自我と現実の世界を発見したルネッサンス という時代性であろうか。
疲れきった感性を癒すために、ラセン階段をのぼって屋上に出た。
ほてった頬を風にあてて、心地よい開放感にひたりながら、冬枯れの、寂寥としたウァチカン市国とローマ市外を望見していると、一人のイタリア青年が声をかけてきた。
ギリシャ 同様、イタリアにおいても過去の栄光にひれ伏し、現在を生きる人々が心なしか悲しげに見えたのは、旅行者の感傷に過ぎないのであろうか。
| | システィナ礼拝堂とミケランジェロ ロス キング |

